1980年代前半 フィリピン人エンターテイナーの来日が本格化。厚木でも最初期の店舗が登場
1990年代 バブル崩壊後も興行ビザ発給数は増加。全国で最多店舗数を記録した時代
2004〜2005年 米国TIPレポートで日本が監視対象に。興行ビザ要件の大幅厳格化。発給数が約8割減
2007〜2019年 在住フィリピン人アルバイト中心のモデルへ移行。SNS化による客・キャスト関係の変質
2020〜2021年 コロナ禍。入国規制でタレントが来日不能に。多くの店舗が閉業・長期休業
2022年〜現在 水際対策解除後も円安が直撃。タレント確保難・物価高騰の二重苦が続く

草創期 1980年代

バブルと出稼ぎが出会った街

1980年代、フィリピンはマルコス政権下の経済停滞と貧困から逃れるため、多くの国民が海外出稼ぎに活路を求めていた。日本はちょうど景気が上向き、夜の娯楽産業が急速に拡大しつつあった時期と重なる。興行ビザ(在留資格「興行」)の制度を通じて、フィリピン人女性が「エンターテイナー=タレント」として来日する流れが本格化したのはこの頃だ。

厚木は製造業の集積地であり、本厚木駅を中心に飲食・歓楽街が形成されていた。工場勤務の労働者や中小企業の社員、そして在日米軍厚木基地関係者の往来もある。この複合的な需要が、フィリピンパブの最初の芽吹きを支えた。最初期の店は、スナックを改装したような小規模なものが多く、ビルの2階や地下に間借りする形が主流だった。

黄金期 1990年代

店が増え、街が変わった10年

バブルは1991年に崩壊したが、フィリピンパブ業界への影響は意外なほど軽微だった。むしろ1990年代を通じて興行ビザの発給数は増加を続け、全国的に最多店舗数を記録したのはこの時代だ。厚木でもこの10年で店舗数が大きく増え、「フィリピンパブ街」と呼べる一帯が駅周辺に形成されていった。

この時代の店舗は専業のタレント中心で運営されていた。プロモーター(芸能プロダクション)がフィリピンからタレントを斡旋し、3〜6ヶ月のビザ期間内に都市の店舗を転々とするシステムが確立していた。歌・ダンスのショータイムは当時の「売り」であり、今でも「あの頃の厚木のパフォーマンスは本物だった」と語る常連は多い。

90年代の興行ビザ年間発給数(全国推計)

約8万人

ピーク時の規模感

当時の来日タレント主な出身地

マニラ・セブ
バコロド

地方出身者も増加傾向

当時の主要客層

製造業・
建設・営業職

地元密着型の常連が多数

この時代、タレントのパフォーマンス水準は現在よりも高かったという声は多い。TESDA(フィリピン技術教育・技能開発庁)などの資格要件がなく、歌・ダンスの実力で選ばれるケースが主流だった。当時の「ショータイム文化」は、現代のフィリピンパブとは別の娯楽体験を提供していた。
転換点 2004〜2006年

興行ビザ大改革 — 業界を揺るがした激震

2004年、米国国務省の「人身売買に関する年次報告書(TIPレポート)」が日本を「要監視国」に指定した。指摘の核心は、興行ビザが人身売買・強制労働の温床になっているリスクだった。日本政府は国際的な批判を受け、2005年に興行ビザの発給要件を大幅に厳格化する。

新しい要件では、来日タレントはフィリピン国内の認定機関(TESDA等)が発行する芸能訓練証明書の取得が必須となり、また日本側の受け入れ機関の規模・適格性審査も強化された。結果として年間8万人規模あった発給数は、改正後わずか数年で約8,000人前後まで激減する。

改正前(2004年以前)

〜8万人/年

興行ビザ年間発給数

改正直後(2006年頃)

〜8千人/年

約90%減という試算も

厚木エリアへの影響

店舗数
大幅減少

閉業・業態転換が相次ぐ

この改正が厚木の業界に与えた衝撃は甚大だった。タレントだけで運営していた店舗は一気に人材不足に陥り、閉業を余儀なくされるケースが続出した。常連客が「あの頃を境に街の空気が変わった」と話す時期は、ほぼ例外なくこの2005〜2006年のことを指している。

変革期 2007〜2019年

「アルバイト」の時代と、スマホが変えた常連文化

ビザ改正後の厚木フィリピンパブは、生き残りをかけて業態を変えていった。最も大きな変化は、タレント中心から在住フィリピン人のアルバイト中心のモデルへのシフトだ。配偶者ビザ・永住・定住などの在留資格を持つフィリピン系女性が、パート・アルバイトとして店を支える形が主流になっていく。

この移行は単なる人材調達の変化ではなかった。日本に根を張った生活者が働くことで、キャストと常連の関係の深度が変わった。「3ヶ月で帰国してしまうタレント」ではなく、「何年も同じ街に住んでいるアルバイト」との関係は、継続性と相互理解においてまったく異なる性質のものになった。

もうひとつの大きな変化は、スマートフォンとSNSの普及だ。2010年代になると、LINE・Facebook・Instagramが常連とキャストの関係に介入し始める。来店前の連絡、誕生日への祝福、帰国したキャストとの連絡継続……店外での接点が増えることで、「常連文化」の意味合いそのものが変化した。店に来る理由が「会いに来る」から「つながり続けるための場所」に変わっていったともいえる。

この時期に「長続きする店」と「消えていく店」の差が明確になった。生き残った店に共通するのは、①在住キャストの定着率が高い、②ママが人間関係の中心にいる、③常連の高齢化に合わせてゆったりとした雰囲気に転換している——という3つの特徴だ。
試練と現在 2020年〜

コロナ、円安、そして「それでも残る」理由

2020年のコロナ禍は、フィリピンパブ業界に戦後最大の打撃を与えた。緊急事態宣言による酒類提供禁止・時短営業、そして入国規制によるタレントの来日不能——この二重苦が長期間続いた。厚木でも複数の店舗がこの期間に閉業した。再開できた店も、コスト増・客数減・人材不足という三重苦の中で細々と営業を続けた。

2022年10月の水際対策解除後は、タレントの来日が再開された。しかしここに円安という新たな試練が重なる(この詳細については本誌の既報「円安が変えた、あの夜の空気」を参照)。タレントは帰国を早め、アルバイトは掛け持ちを増やすという苦しい構造が厚木でも現実となっている。

コロナ禍の飲食・夜間業種 閉業率(推計)

約3〜4割

全国飲食店の目安

入国規制の期間

約2年半

2020年〜2022年秋

現在の最大課題

円安+
人材確保難

2022年〜継続中

それでも、厚木のフィリピンパブは今も灯っている。生き残った店には、それぞれの「残った理由」がある。長年通い続ける常連がいる。地元に根を張ったキャストがいる。何十年も場所を守り続けたママがいる。どれだけ外部環境が変わっても、カウンターの向こうに人がいる限り、あの空気は消えない。


変遷史まとめ — 40年を5つの転換点で読む

  • 1980s バブル景気とフィリピンの経済難が出会い、興行ビザによるタレント来日が本格化。厚木でも本厚木駅周辺に最初の店舗が誕生した。
  • 1990s 黄金期。店舗数・タレント数ともに最多。ショータイム文化が栄え、地元密着型の常連文化が形成された。
  • 2005年 興行ビザ大改正が最大の転換点。発給数が激減し、タレント主体のビジネスモデルが崩壊。多数の店舗が閉業した。
  • 2007〜19年 在住フィリピン人アルバイト中心のモデルへ移行。SNS化による常連文化の変容。生き残った店の個性化が進んだ。
  • 2020s コロナ禍と円安の二重苦。業界の規模は縮小したが、残った店は「人間関係の場」としての本質を守り続けている。

2025年 厚木フィリピンパブ情報ポータル編集部